ご存じですか?
佐賀には、かつて近代日本の礎を築いた賢人たちがいたことを。
佐賀の至るところで見られる足跡のひとつひとつが、確かに彼らが佐賀にいたことを雄弁に語りかけてきます。彼らから学ぶことはできます。
お越しください。佐賀の賢人たちの足跡を巡る旅へ。
鍋島直正
ずば抜けた先進性を持つ名君
家督相続、そして財政再建
佐賀藩9代藩主・鍋島斉直の嫡子として江戸の佐賀藩邸に生まれる。17歳で家督を継ぎ10代藩主になると様々な改革を断行し、佐賀藩を幕末の雄藩にのし上げた。家督相続当初、藩の財政は逼迫していたため、直正はまず粗衣粗食令を出し、自らも率先。藩の役人の大幅なリストラ、借金の整理、磁器・茶・石炭などの産業育成を通して財政改革を行った。
あらゆる方面へ及ぶ藩政改革
教育にも力を入れ、藩校「弘道館」の拡充や洋学を学ぶ蘭学寮を設置。子息の成績によって父親の禄を決定するといった「文武課業法」を制定するなど、徹底して勉学を推奨した。また、医学寮を設置し、当時世襲制が当たり前だった医者の免許制度を日本で初めて取り入れ、さらに当時不治の病であった天然痘の根絶のため、種痘を自らの長男で試すことでその信頼性を世に示した。
最先端の軍事技術で明治維新へ
そして長崎警備の名目の元、国防のための兵器の必要性を感じ、鉄製大砲鋳造のための反射炉を築いたり、理化学研究所「精煉方」や海軍伝習機関「三重津海軍所」を設置、国産初の蒸気機関の開発など、幕末佐賀藩の技術力は日本の最先端を走っていた。
その結果として佐賀藩の軍事力と多くの優秀な人材は、明治維新期に大きな役割を果たし、日本の近代化を推進する原動力となった。
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大隈重信
明治・大正きっての傑物
閉鎖的な教育制度に反発、義祭同盟へ参加し脱藩へ
佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。7歳で藩校「弘道館」に入学、優秀な成績を修めるも、漢学を中心とした閉鎖的な教育に反発、南北寮の大喧嘩の首謀者と目され、18歳で館を離れた。その後は蘭学寮へ入学し洋学を学ぶ傍ら、義祭同盟で尊王思想を学び、副島種臣と共に脱藩して京に向かうなど、志士活動を行う。
明治新政府の重要ポストを歴任
明治新政府では外国事務局判事に任じられると、キリスト教徒の処分問題でイギリス公使パークスと激しい舌戦を繰り広げた。その後は大蔵卿、外務大臣、農商務大臣などを歴任し、グレゴリオ暦の導入、鉄道の敷設、貨幣制度の整備、東京専門学校(後の早稲田大学)の開校など、今日に残る様々な功績を残している。
下野、立憲改進党結党、そして日本初の政党内閣組閣へ
明治十四年の政変により下野後、大隈は立憲改進党を結党。その後、第一次伊藤博文内閣での外務大臣就任などを経て、1898年に板垣退助と共に隈板内閣を組閣、総理大臣になる。これは日本初の政党内閣と言われている。この内閣は半年程度で解散になるが、1914年には再び総理大臣に就任、2年後に79歳で解散となるが、これは総理大臣としては今日にいたるまで最高齢である。
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佐野常民
揺るぎなき博愛精神。日本赤十字社の創設者
弘道館へ入学、諸国留学へ
早津江村(現佐賀市川副町早津江地区)に佐賀藩士・下村三郎左衛門の五男として生まれる。9歳の時に佐賀城下水ヶ江の佐賀藩医、佐野常徴の養子となり、医者を継ぐための勉強を始める。
13歳の時に藩校「弘道館」に入学。以降、江戸の古賀侗庵、佐賀の松尾塾、京都の広瀬元恭の時習堂、大阪の緒方洪庵の適塾、紀伊で華岡青洲の春林軒塾、江戸で伊東玄朴の象先堂塾に入門。幾多の留学体験で幅広い学識を得た。
佐賀藩の工学系エキスパート
31歳の時に佐賀藩が設置した理化学研究所、精煉方の主任となり、日本初の蒸気機関のひな形等を完成。長崎では幕府の海軍伝習に参加し、後に佐賀の三重津海軍所で主要な役割を担い、国産初の実用蒸気船、凌風丸を完成させる。
赤十字との出会い、後の日本赤十字となる博愛社設立へ
1867年、パリ万博に参加する佐賀藩の代表として渡欧。そこで赤十字社の存在を知り、深い感銘を受ける。10年後に西南戦争が勃発すると、日本赤十字社の前身となる「博愛社」を設立、敵味方に関係なく負傷者の救護活動を行った。その設立には幾多の反対があったが、佐野はその信念を貫き、有栖川宮熾仁親王への直訴を行い、実現に至った。
他にも日本海軍創設の提言や灯台の建設、日本美術の保護団体の創設など、多彩に活躍。日本はまるで佐野に引っ張られるように近代化へ突き進んでいった。
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島義勇
北の大地を切り開いた開拓者
諸国遊学、義祭同盟への参加、盟友・江藤新平らとの出会い
佐賀藩士島市郎右衛門の長男として佐賀城下精(しらげ)小路に生まれる。9歳の頃より藩校「弘道館」に学び、23歳で卒業。家督を継いだ後は諸国を遊学し、帰国して藩主鍋島直正の外小姓、弘道館目付となる。枝吉神陽の「義祭同盟」にも創設期から参加し、そこで江藤新平や大木喬任とも出会っている。
極寒の蝦夷地探検
1856年、直正の信頼が厚かった島はその命で、当時の未開拓地であった蝦夷地(現在の北海道)の探検に随行。厳しい寒さの中、約2年に渡って北の大地を歩き続け、その詳しい調査結果を記した「入北記」を残している。
北海道の街づくり、新政府との衝突、佐賀の役
明治新政府では直正が蝦夷開拓督務となると、島はその経歴を買われ開拓使判官に就任。北海道開拓の街づくりを任される。札幌を中心とした街づくりを進めるも、予算による衝突で志半ばで解任。後に秋田県権令となるも、ここでも中央政府とぶつかりまたも解任。後の佐賀の役では憂国党の党首となって戦うも敗れ、53年の理想に燃えた生涯を閉じた。
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江藤新平
「民権」を唱えた初代司法卿
貧困との闘い、義祭同盟との出会い、そして脱藩ののち謹慎へ…
佐賀城下八戸村に佐賀藩士の江藤胤光の長男として生まれる。父胤光は佐賀藩士とはいえ、手明鑓(てあきやり)という下級武士で、日々の生活にも困窮するような家だった。
12歳の時に藩校弘道館に入学、人並みはずれた頭脳を持っていたが、学費が払えず進学もままならなかった。1850年に枝吉神陽により「義祭同盟」が結成されると参加、尊王思想などを学び、仲間と議論に明け暮れる。23歳で意見書「図海策」を書き、開国論を唱える。29歳の時に藩の方針に業を煮やし脱藩、京都に入り当時の世相をまとめるも、謹慎を命じられる。
政務復帰、明治新政府で数々の改革を断交
大政奉還によって幕府が消滅すると謹慎を解かれ、郡目付として復帰。新政府が誕生すると京都に派遣される。江戸城が無血開城されると城内の文書類を接収し、当時の法令を読み解く。
そして明治5年、明治新政府において初代司法卿に就任。四民平等を説き、当時「民権」という概念がなかった時代に、民の権利を守り、誰でも公平な裁判ができるようにした。それは、それまで「お上」と言われていた役人すらも訴えられる画期的なものだった。また学制制度や警察制度整備、娼妓解放令などを進める。
佐賀の役で敗北、皮肉な最後
しかしその性急な改革が政府内の反感を買ったのも事実で、最後は佐賀の役に敗れ、鹿児島から高知への逃亡の末捕らえられ、まともな裁判もなしに処刑されてしまう。時代を達見した天才の早すぎる最期だった。
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副島種臣
世界が認めた正義の外務卿
出来の良い兄の影で悩む日々・・・
佐賀藩士枝吉南濠の二男として佐賀城下鬼丸町に生まれる。国学者である父と兄・枝吉神陽の影響により、早くから尊王攘夷思想に目覚める。7歳で藩校「弘道館」に入学。出来の良い兄の陰で、劣等感に悩む日々だったが、一念発起し21歳で弘道館首班を務めるまでになる。
大隈重信とともに脱藩、謹慎へ
32歳の時、父南濠が亡くなると同藩の副島利忠の養子となる。兄の「義祭同盟」にも参加。1867年には大政奉還を進めるために大隈重信と脱藩するが、捕えられて謹慎処分を受ける。
「正義の人」、下野後中国を旅する
明治政府では参与・制度取調局判事となり、1869年に参議、1871年に外務卿を歴任。明治5年のマリア・ルス号事件で「正義の人」として一躍国内外で脚光を浴びるようになる。翌年には台湾の宮古島島民遭難事件の処理交渉のために清を訪れ、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりも評価され、信頼を一層深めた。同年、征韓論争に敗れて下野。自宅を売り払い、中国大陸を旅行し見識を深める。後に明治天皇の待講を務め、天皇からも寵愛された。
学識、人柄、書才
西南戦争で敗れた西郷隆盛が日本の未来を託す遺言状の宛先に副島を選んだことからもわかるように、幕末維新期~明治初期の多くの英傑から全幅の信頼を受ける学識と人柄であった。
書家「蒼海」としても多くの作品を残し、その独創的な書は今もなお多くの人を魅了している。同じく佐賀出身の書聖、中林梧竹と共に近代書の源流と言われている。
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大木喬任
日本教育制度の基礎を作り上げた酒豪
11歳の時に父を亡くす
佐賀藩士大木知喬の長男として佐賀城下赤松町に生まれる。他に兄弟はなく一人っ子。大木が11歳の時に、父知喬が亡くなり、母シカ子の手一つで育てられることになる。大木は「家の刀が皆俺のものになった」と喜んだというが、それは父親を亡くした少年の強がりだったのだろう。
義祭同盟へ参加、志士活動に身を転じる
15歳の頃から藩校「弘道館」の内寮生となり、19歳の時に枝吉神陽により「義祭同盟」が結成されると、これに参加。江藤新平、大隈重信、副島種臣らと親交し、志士活動にも参加している。
初代文部卿として日本教育制度の礎に
明治元年、明治新政府に出仕すると、江藤と共に江戸遷都を建白。名前を東京と改め、民間出身としては最初の東京府知事となる。明治4年には初代文部卿となって学制・学校令・教育勅語などの教育体制の整備に尽力。それまで一部の子供しか行けなった学校を誰でも通えるようにし、全国に5万以上の小学校を置くなど、今日に続く日本の教育制度の基礎を築いた。
明治6年には参議兼司法卿となり、後の神風連の乱や萩の乱の事後処理に当たった。また、法典編纂の確立にも尽力したことから、明治の六大教育家の一人に数えられている。
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サガバイ『佐賀の賢人』ブック
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