本のページをめくる時、私たちの心は物語の中に溶けこんでいる。
主人公と同じ目線で同じ風景を見ることができたら…。
そんな夢のような時間を過ごせる場所が、佐賀県にはたくさんある。
日本で最も愛された歴史小説家が、昭和を代表する無頼派の文豪が、
時代を切り取る人気作家が魅せられた佐賀へ、出かけよう。
目次
佐賀市×司馬遼太郎『歳月』
天のことを皇天と言い、地を后土(こうど)という。
「ただ、皇天后土のわが心を知るあるのみ」
と、江藤は叫んだ。三度さけんだ。
天地だけが知っている。この日本語世界がうんだ最大の雄弁家の最後のことばである。
ー司馬遼太郎『歳月』より引用
佐賀城跡
作家・司馬遼太郎。歴史小説ファンであれば必ず彼の作品を通ると言っても過言ではない、昭和を代表する大作家だ。
彼によってスポットを当てられ、生き生きと人間らしく描写された歴史上の人物は、『竜馬がゆく』なら坂本龍馬、『燃えよ剣』なら土方歳三。そして『歳月』では、佐賀藩出身の江藤新平を主役に据えている。
江藤新平は、明治新政府で初代司法卿を務め、近代的な裁判制度を導入。三権分立に基づく国家制度の設計や、民法・国法の編纂、国民皆教育(こくみんかいきょういく)の導入など、現在にまでつながる日本の礎を築いた人物として知られている。廃藩置県の指揮を執ったのも江藤というから、その八面六臂の活躍には驚かされる。功績を見れば、お札の顔になってもおかしくないくらいだが、「明治六年の政変」で下野し、翌年には不平士族が蜂起した佐賀戦争(佐賀の乱)の首謀者として捕縛され、刑死している。
この時、政府軍を率いて鎮圧に動いたのが、大久保利通だ。『歳月』の中では政府側トップの大久保との確執が生々しく描かれる。
佐賀戦争の舞台であり、江藤新平が非業の最期を遂げた場所でもある、佐賀市内の佐賀城跡。本丸に続く「鯱(しゃち)の門」の扉や柱には、戦闘の激しさを物語る弾痕が今も残っている。
「弾痕は手の届く高さにあるので実際に触れていただくことができますよ。木の扉に穴が開き、弾の鉛がこびり付いています。佐賀城は廃藩置県後、佐賀県庁になりました。
権令の岩村高俊が熊本鎮台兵とともに入城すると、士族たちはそれを“奪還”し、拠点としたのですが、大久保率いる政府軍に鎮圧されます。
江藤新平は佐賀を出て船で薩摩へと渡り救援を求めましたが断られ、次は東京を目指します。その途中、土佐で捕縛されました。それが1874(明治7)年3月29日。佐賀へ移送され、斬首の宣告を受けて執行されたのは4月13日。政府側がいかに迅速に江藤を“反逆者”として処罰したかったのかが分かります」。
鯱の門を紹介しながら当時の時代の流れを語るのは、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で学芸員を務める藤井祐介さん。
江藤が刑を執行されたのは鯱の門に入る手前、二の丸付近と言われている。現在は佐賀藩10代藩主・鍋島直正の像が建つ。四民平等を目指し、身分や貧富の差により冤罪や不当な扱いを受ける人がいない世の中のために裁判制度を導入、司法と行政の分離、裁判所の設置、検事・弁護士制度の導入など、司法改革を行った江藤本人が、反論も許されずに一方的に断罪される。
司馬は作中でこの臨時裁判の様子を「司法も何もあったものではなかった」と書いている。さらし首というあまりに屈辱的な刑に、名ばかりの法廷で江藤はただ一言、「裁判長、わたしは」と叫んで自由を奪われ、強制的に退廷させられたという。大久保利通の日記には「江藤、醜態、笑止なり」と冷酷に記されていた。
「1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布の大赦により罪状は消滅しましたが、二度の内閣総理大臣を務めた大隈重信など佐賀藩出身の仲間たちでも、後年になるまで江藤を失ったことへの後悔を口にできなかったといいます」。
鯱の門を抜けた先には、佐賀城本丸御殿の一部を復元した佐賀城本丸歴史館がある。館内には幕末維新期の佐賀をテーマにした展示が行われており、常駐しているボランティアガイドによる解説を聞くこともできる。
江藤をはじめ佐賀藩出身の偉人たち、彼らを育てた佐賀藩主・鍋島直正の教育改革、国内随一と謳われた幕末佐賀藩の科学技術についても映像やパネルで分かりやすく紹介している。
「名誉が回復した後も、“佐賀戦争の首謀者”というイメージが強く、佐賀県外ではあまりその功績や人となりに注目されることの少なかった江藤。しかし近年、新たな資料の発見により、江藤は佐賀に入り蜂起する前から政府側に士族反乱の首謀者とされ先制攻撃を受けていたと考えられるようになりました。
『人民のための国をつくる』という志を最後まで失わなかった江藤が生み出した制度や機関が今の私たちの暮らしを支え続けていることに驚く人も多いと思いますよ。江藤をはじめとする佐賀の偉人たちや幕末の佐賀藩にゆかりのある場所を巡り、幕末期の動乱を体感してみてください」。
幕末時代の 佐賀にふれるスポット
国内随一の科学技術力を誇った幕末期の佐賀藩。明治維新の原動力ともなった“幕末の雄藩”を佐賀市内で体感しよう。
徴古館
1927(昭和2)年、鍋島家12代当主により創設された佐賀県初の博物館。収蔵品は鍋島家に代々伝わる歴史資料や美術工芸品。建物は県を代表する昭和初期の洋風建築のひとつとして国登録有形文化財に指定されている。敷地は江藤新平や大隈重信らが少年時代に学んだ藩校「弘道館」の跡地でもある。
徴古館
佐嘉神社
財政改革・教育改革を徹底して行い、多くの優秀な人材を育て上げた10代藩主・鍋島直正と、その遺志を継ぎ科学の研究を充実させ、明治新政府の要職に就き伝統文化の保護にも注力した11代藩主・鍋島直大の親子を御祭神として祀る。境内には佐嘉神社をはじめ松原神社や松原恵比須神社など8つの神社があり、“ 八社詣り”を行うことができる。
佐嘉神社
大隈重信記念館
1870(明治3 )年に明治政府の参議となり翌年には大阪に造幣局を創設。通貨を「円」に一新した。1882(明治15)年には東京専門学校(現在の早稲田大学)を設立し、2回の総理大臣も経験した人物。記念館には歴史資料を展示するほか、その生涯を映像資料で紹介している。隣接する生家には少年時代に勉学に励んだ勉強部屋も残されている。
大隈重信記念館
龍造寺八幡宮
境内には南北朝時代の武将・楠木正成とその子・正行を祀る「楠神社」がある。この場所で、弘道館の教諭であった枝吉神陽が1850(嘉永3)年に「義祭同盟」を主宰。枝吉に薫陶を受けた若い志士たちが集い、国の行く末を想い熱く議論を交わした。江藤新平も同盟に参加。佐賀藩の家老や後に岩倉使節団に同行する久米邦武も加わっている。
佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館
世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつである「三重津海軍所跡」は、幕末佐賀藩の洋式海軍の拠点だった場所。海軍教育や洋式船の修理、日本初の実用蒸気船「凌風丸」の建造が行われた。海軍所の指揮を執ったのは、後に日本赤十字社設立の立役者となった佐野常民。その功績に関わる資料や遺品などを展示する。
佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館
九州王国 2024年3月号掲載